第13号 2004年2月
 

曹洞宗における菩薩戒について

奥村正博
曹洞宗国際センター所長

戒を受けることによってわれわれは仏教徒になる

仏教は民族宗教ではありませんから、生まれると同時に自動 的に仏教徒になる人はいません。仏教徒になるためにはまず、仏・法・僧の三宝に帰依するという決意をしなければなりません。そのようにしてわれわれは釈尊の戒を「生きるための指針」として授かるのです。もともとインドでは、比丘は250の律(Vinaya)、比丘尼は348の律を受けました。在家の仏教徒は5、8、あるいは10の戒を受けました。中国の大乗仏教においては比丘も比丘尼も律とともに菩薩戒も受けましたが、それはおそらく中国で独自に始まったことでしょう。

日本の天台宗における戒

9世紀の初頭、日本天台宗の開祖である最澄(767−822)が大乗戒を授けるだけで十分であるという断を下しました。日本は大乗仏教の国であり律は大乗のものではないというのがその理由でした。天台宗においては大乗戒は円頓戒(円かにして頓に成ずる戒)とよばれ、三つの浄戒と十の重戒そして四十八の軽戒から成り立っています。それは『梵網経』とよばれる経典に由来するものです。現代の学者の説によれば、この経典は五世紀ごろに、インドではなく中国で作成されたとされています。

道元禅師は菩薩戒のみを受けた

日本曹洞宗の開祖である道元禅師(1200−1253)はもともとは日本天台宗の僧侶として1213年に得度をうけました。ですから彼が受けたのは大乗戒だけなのです。伝記によれば、道元禅師は中国の僧院で修行する許可を得るのに苦労したと伝えられていますが、それは禅師が、中国において正式の僧として認められる必要条件である律を授かっていなかったからです。実際、彼は律を授かってはいません。自分の弟子や在家の信者に対しても、「仏祖正伝菩薩戒」とよばれる十六条の戒のみを授けています。曹洞禅の伝統においてわれわれが授かる菩薩戒は律とはかなり性格を異にしています。

『梵網経』における菩薩戒

『梵網経』のなかで十重禁戒と四十八軽戒について序説的に述べてある箇所には次のような趣旨の記述があります。光明金剛宝戒は一切の仏の本源、一切の仏の本源であり仏性の種子である。一切の意識色心、この情、この心あるものは皆、 仏性戒のなかに入る。当当常有の因があるから当当常有の法身がある。そのようであるからこのような十の波羅提木叉が世界に出てくるのである。それらはダルマ(法)の戒である。それらの戒は三世一切の衆生によって頂戴受持されるものである。わたしはこれから「十無尽蔵戒品」を重ねて大衆のために説こう。それは一切衆生の戒である。その本源は自性の清浄さである。

禅宗寺の授戒会の戒弟

また十重戒についての序文において、『梵網経』には「その時、釈迦牟尼仏、初めて菩提樹下に坐して無上覚を成じ、初めに菩薩の波羅提木叉を結したまう」とあります。

波羅提木叉とは戒についてのテキストのことですから、ここでは『梵網経』のことを意味しています。つまり、菩薩戒は釈尊が無上覚を成じるやいなやすぐに制定されたものであり、それ は彼が説法を開始する以前のことであったいう意味なのです。歴史的に言えば、これは正しくありません。釈尊のまわりに僧伽が形成されたあと、釈尊は弟子達が過ちを犯すたびに勧告を発し、「もう二度とそれをしてはいけない」と教えました。釈尊のこうした勧告は十大弟子の一人であるウパリによって記憶さ れました。釈尊の死後まもなくマハーカシャパによって指導された第一回の仏典結集において、ウパリは彼の記憶していた釈尊の勧告を読誦しました。それが律の元になりました。釈尊は人々が過ちを犯すに先立って、戒あるいは規則を制定したりはしませんでした。律のテキストには、それぞれの戒がなぜ制定されたかを説明する物語が記録されています。それらの物語を読めば、僧伽というものが生身の人間の集まりだったということがよくわかります。釈尊の指導のもとにダルマを学び修しようという願いをもって集まってきたにもかかわらず、彼らはあらゆる種類の過ちをおかしました。

菩薩戒の基本的な考え方は律とはたいへん違っています。『梵網経』は、菩薩戒は釈尊が無上覚を成じたときに制定されたという点をあげて両者の違いについて指摘しています。

道元禅師は『教授戒文』の冒頭において同じことを次のように指摘しています。「諸仏の大戒は諸仏の護持したもう所なり。仏仏の相授あり、祖祖の相授あり、受戒は三際を超越し・・・云々」 菩薩戒は過ちを犯した僧への釈尊の勧告や同じ過ちを犯すことへの禁止令を集めたものではありません。菩薩戒は仏祖から仏祖へと伝えらていく正法と同じものなのです。だからこそそれは『梵網経』のなかで「ダルマの戒」と呼ばれているのです。十重戒は釈尊がさとったダルマの十の倫理的側面なのです。それはのちに釈尊の弟子達に説かれ、さらに祖師から祖師へと代々伝えられてきたのです。

菩薩戒の基盤となっているのは釈尊がさとったあらゆる存在のリアリティです。いいかえればあらゆる存在の無常性、無我性、縁起性です。われわれもあらゆる存在も無常であり、無我であるというリアリティに目覚めるとき、なにものにも執着することはできないことが理解できます。そして自分自身、自分の所有物、他のあらゆるものへの執着から解放されます。インドラの網(因陀羅網)の結び目のようにすべてのものが他のすべてのものとつながりあっているという事実に目覚めるなら、自分があらゆるものによって支えられあらゆるものと共に生きていることを理解できます。われわれは他との関係においてのみ存在することを許されているのです。そういうリアリティが菩薩戒の元になっているのです。すべての存在が相互につながっていることを理解するとき、おのずと他に対して役に立とうとし、他に対して害を与えないように努めるようになるのです。

戒師 板橋興宗、前曹洞宗管長

懺悔
曹洞宗の伝統では戒を授かる儀式において、まず次のような偈を唱えて懺悔をします。「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴従身口意之所生 一切我今皆懺悔」

『普賢観経』からとられたこれとは別な懺悔のための偈があります。「一切業障海 皆従妄想生 若欲懺悔者、端坐念実相」

この偈は菩薩戒がリアリティへの目覚めとこのリアリティについての智慧に基づくものだということをはっきりと示しています。

三帰
そのあと仏・法・僧の三宝に帰依します。仏とはリアリティに目覚めた者のことです。法とはリアリティそのもの、もののあるがままのありようです。僧とはすべての存在のリアリティについての教えを学びそれに従って生きようと願う人々のことです。

三聚浄戒
次に、三聚浄戒を受けます。(1)道徳的規則を受け入れるという戒(摂律儀戒)、(2)正しい行いを受け入れるという戒(摂善法戒)、(3)すべての存在を受け入れるという戒 (摂衆生戒)。これら三つの戒は菩薩の道を歩んでいくうえでの方向性を与えるものです。

十重戒
十重戒とは(1)殺さない、(2)盗まない、(3)邪な性的な行為をしない、(4)嘘をつかない、(5)人を酔わせるものを扱わない、(6)他を批判しない、(7)自分を褒め他をけなさない、(8)法や財産について出し惜しみしない、(9)怒りにかられない、(10)三宝をけなさない、です。

最初の戒について、道元禅師は『教授戒文』において「生命不殺仏種増長、仏の慧命を継ぐべし。生命を殺すこと莫かれ」 と注釈を加えています。

ブッダを実現する種子を育てていくためには、殺さないような努力を続けなければなりません。同じように、他の九つの戒 もすべてあらゆるの存在のリアリティが備えている徳なのです。

禅と戒は一つである

曹洞宗の伝統においてわれわれが受ける菩薩戒は「禅戒」ともよばれています。それはわれわれのする坐禅と戒とがひとつのものであるということです。坐禅の修行においては、われわれのこころが作り出したものである「世界の図」の上ではなく、すべての存在のリアリティという地盤の上に自分の全分を託します。日常生活のなかで戒を守る努力を続けることは、坐禅に よって導かれた生活をする努力とひとつのことなのです。

 

 

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